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 アンデルセンの童話「野の白鳥」で、沈黙の誓いとともに編みあげたイラクサの帷子を白鳥たちに投げた後、エルザは叫ぶ。「私は魔女ではありません!」
 私の沈黙の誓いも果てた。「私は自業自得論者ではない!」叫ぶためだけに立てたささやかなブログ、十八禁。コメントいただける場合には、ローカルルール必読でお願いします。
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婚姻の晩餐

 このブログを立ち上げた理由は一つではない。私が議論に参加しそびれた場が、複数あるからだが。
 そのうちの一つが、牛男氏の「「弱者叩き」の背景にあるもの」である。

 私は儒教についてはほとんど知らない。だからこのエントリは勉強になった。──のだが、別の意味でも興味深かった。
 というのは、この記事は、いわば男尊女卑を社会学/宗教的側面から読んでいる。牛男氏が、動物行動学的側面をどうお考えなのか、ぜひ伺ってみたいと思ってしまったのである。

 儒教は、中国の当時の社会の価値観を体系化したものであるかもしれないが、儒教とともに男尊女卑の価値観が生まれたというだったのではないだろう。キリスト教はユダヤ教徒社会から出たが、ユダヤ教は男尊女卑の宗教である。仏教はヒンドゥー教徒社会から出たが、ヒンドゥー教は男尊女卑の宗教である。古代ギリシャでも、男性のみに参政権があった。男尊女卑というのは、「古来」の価値観なのだ。

 では、ホモサピエンスという「種」は、いったい何時から男尊女卑なのだろう。一婦一夫制はいつからメジャーな制度となり、……いつからレイプがあるのだろうか。


 人間の祖先が火を使い始めたのが160万年ほど前だという。ホモ・サピエンスという種が確立したのが、参考書により数値が異なるが、15万年~40万年前らしい。

 霊長類仲間の研究は参考になるだろうか?
 ゴリラは、シルバーバックと呼ばれる「強い雄」が雌を独占する。あぶれた雄は雄同士で群れをつくり、雄同士のレイプも見られるという。また、あぶれ雄はときに雌の子を奪って殺す。雌は悲しむが、子を失うと発情し、自分の子を殺した雄を受け入れるらしい。
 オランウータンは、強い雄と弱い雄で「面変わり」する強い雄は独特の鳴き声を上げて雌を集め、弱い雄は小型ですばやく、雌を捕まえてレイプする。 
 チンパンジーはどうだろう。最近の遺伝子学的な研究によれば、ヒトとチンパンジーの差は、チンパンジーとゴリラの差より小さいという。
 チンパンジーもボノボ(ピグミーチンパンジー)も乱婚制で、特定のカップルはなく、多数雄と多数雌が交尾する。チンパンジーは近隣の群れと戦争をし、殺しあう。自分の群れの子を殺すこともある。
 ボノボは、同族殺しが観察されていない。同性同士、子供同士でも、コミュニケーションとして性的な行動をとり、陽気に快楽を分け合うのだそうだ。雄が雌に食べ物を与えて懐柔してからセックスする、売春行為(?)も見られるが、レイプはないらしい。

 人は、どのタイプに近いのだろう。
 
 多くの例外を抱えるとはいえ、人のメイティングの基本形態は単婚制であろうと言われている。

 一つの証左が、雌雄の体格差である。ハーレムをつくるゴリラは、雄が雌の2倍近くある。単婚制の動物は、雌雄の体格差が小さくなる。乱婚制のチンパンジーも体格差は小さいが、いわゆる「フリーセックスコミュニティ」で成功したものはないそうである。ヒトは嫉妬が強すぎるのだそうだ(これも出典は『やわらかな遺伝子』)。ヒトがもしもともと乱婚制の動物であったとしたら、もうちょっと上手くやれる気がする。

 「人間家族の進化:動物との比較から見えてくること」 によると、数百万年前の先祖である猿人の体格は、男性の身長が約1.7メートル、女性の身長は1メートル強だという概算があるらしい。これは現在の男女差よりかなり大きい。このことから、この時代の猿人は、ハーレム形式だったのではないかとする説がある。

 最近、このブログを書き始めた後に読んだ、マット・リドレーの『やわらかな遺伝子』という本で、私が目を瞠った実験がある。
 蛇を見たことのない子サルは、蛇に怯えない。「蛇を見て怯える大人サル」のビデオを見せると、蛇に怯えるようになる。ビデオから学習するのだ。ところが、「花を見て怯える大人サル」というビデオを作って見せても、花に怯えるようにはならなかったという。
 まだその機構は充分には明らかでないようだが、脳には、なんらかの「記憶を伝える」仕組みがあるらしい。
 私たちの脳も、生まれたときにすでに何かを覚えているのではあるまいか。
 前稿コメント欄(など)で、「ミュータント」という言葉が出た。私がこの言葉にどうもピンと来ないのは、(私にとって)この語が未来属性をもつからだ。今、新しく起こった変異であって、未来へと継がれていく可能性のあるもの。だが、嗜虐的なレイプは、未来属性のものとは思えない。むしろ、人類がまだ猿人であって、大型の(強い)雄が小型の(複数の)雌を独占していた時代の、遠い記憶が、現代のヒトの中にも何かの形で再現されることがあるのではないか。そんな空想もしてみるのである。

 さて。現代のホモサピエンスが単婚制が基本形態というなら、いったい、なにが原因で移行したのか。

 前に書いたとおり、骨格の化石はあるが行動の化石はない。物理的な部分でさえ、たとえば人はどうして体毛を失ったのかさえ、今も不明らしい。
 一時、私は海棲説に夢中になった。人類が(陸から海へ戻った鯨のように)水棲になりかけた時期があり、その際に体毛を失った、という説である。(エレイン・モーガン『人は海辺で進化した』)

 いかん、また脱線しかけている。話題をもとに戻そう。

 夫婦の始まりについて、『やわらかな遺伝子』に面白い仮説が載っていた。
 人の祖先は、約160万年以上前から火を使っていたという。火を調理に使うとなると、食物を集めてから、火のところまでもっていかなければならない。現在よりも男女差が大きかったので、女性が男性に食物を奪われるというシーンも多かったと思われる。そこで女性は、複数の女性で一人の「強い」男性を「共有」するより、自分だけを守ってくれる男性を選ぶようになった、というのである。
 もう一つ、興味深い事実を紹介している。
 約160万年前に用いられたアシュール型握斧という道具は、100万年の長きにわたってほとんど進化を見せずに50万年前まで使われていた。火打ち石や水晶を骨で叩き削って作ったもので、大きな獲物の解体に用いられたと考えられているのだが、実用的意味合いよりはるかに対称形に精緻に作られているのだそうだ。(ここまでは事実)
 これは、(石を削るだけの腕力をもつ)男の「価値」を示すものであり、女性の気をひくために形を整えたのではないか、という話を、『やわらかな遺伝子』は紹介している。(これはマレク・コーンの仮説)
 どうも、このあたりを読むと、SF者の血が騒ぐのである。
 『やわらかない遺伝子』は、男性は狩猟を、女性は植物系食品の採集を行ったとの説を記してはいるが、動物性の食品の「うまみ」であるイノシン酸と、植物性食品の「うまみ」であるグルタミン酸が、混合したときに「うまみ」を強く感じさせる、などということは併記していない(これは、食品学のほうでは常識である)
 つまり、「男たち」の取った動物性食品と、「女たち」の取った植物性食品を混ぜて調理したり、給食の時間にやらされた「三角食べ」のようにかわりばんこに食べる(口腔内調味という無粋な言葉が食品学にはある)ときに、「うまみ」は強く感じられるということ。「おいしく」感じるのだ。
 人類の始祖の最初の愛の贈り物が、「食べもの」と「包丁」だったのではないか、と想像してみることは、なんだか楽しい。人類の夫婦は、性と食の快楽をともにすることによって、「家族」の単位となったのではないのだろうか。


※この記事は、牛男氏に「反論」する意図はない。記事が「きっかけ」になった、というか、牛男氏が動物行動学的側面についてどうお考えか、聞いてみたくなったのは事実だが。。。あれだ、いわゆる「枕につかっちゃってる」という奴だ(笑) 
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寄稿掲載

 ある方からメールにて、下記の「論文(?)」をいただきました。本人から「個人研究レベル」「どれぐらい真実味があるのかわからない」とのコメントもいただいたのですが、私個人がなかなかに近づきにくい「えろぼん」という分野に切り込んでいらっしゃること、100冊のうち15冊が「単純強姦」であるというデータなどはなかなか得がたい指摘であることから、掲載させていただくことにしました。(作者の許可は得ています) なお、うちは「あてもの」サイトではありませんので、作者類推のコメントを仮にいただいても返答はいたしません(にっこり)

-----ここより引用-----

えろぼんの定義とは何か?

男性または女性または両性に対し、視覚的な表現を介して性的な興奮を起こさせる印刷物。
補足すると、えろぼんにもいろいろ種類がある。

1 扇情的な視覚的表現がえんえん続くもの。アイドルのグラビアなど。
2 ただの扇情的な視覚表現の集合ではなく、そこに人物・社会・時代、大道具小道具などによって劇がしつらえられているもの。いわゆるエロ漫画。

1に関していえば、まず視覚情報がある場合、人間はそれを見て「それが何か」という分類をし、それがどんなものでどんな体感を持つかということを感じとる。このとき、視覚情報に、特に何か強く感情に訴えたり、励起したりする作用があるもの、またはそれを狙って作られたものを「表現」と分類できる。それ以外はただ単に意味のない情報であるか、またはなにかの「説明」にとどまる。えろぼんの場合、説明と表現の分水嶺は「煽情性」の有無にある。
医学的なデータのような写真を見ても人間はそこに煽情性を見出さず無反応だが、優れたポルノ写真は確かに煽情性には優れている。

2に関していえば、これはただ単に1のような視覚情報の形をとらず、そこに人物がいて、社会があって、規律や道徳があって……という「劇」が存在する。この「劇」を通じて、表現の受け手はたんなる煽情性にとどまらない何かを感受する。感受されるものの質はその作品によって様々であり、功罪もまた種々存在する。

次に単なる煽情性にとどまらないえろぼん、つまりえろ漫画についてデータを取る。
「劇」があり、この劇を調べることで、えろ漫画というものは、主に何を主題として何を作り出そうとしているのか? が全体的な傾向として見えてくることを期待する。

データとなる作品のほうの抽出選択の基準については作画技術が高いかどうかのみである。データを落としてきたDLサイトでは、作品は表紙絵のほか内容や粗筋はわからない。したがって選択基準は主観的に「絵がうまいか否か」で決定されている。

無作為に選んだ作品100編の概要をそれぞれ分類する。同一作家の作品は除外する。作家の性は考慮しない。性交渉が異性間で行われるか・同性間で行われるかは考慮しない。また作画された年代は考慮しない。
判断基準として、両性の承諾が見られず、一方的な性交渉を行っているものは強姦とみなした。性交渉の後に両性が承諾状態に入るものも強姦と分類した。
和姦の判断基準としては、倫理や性差・近親関係を考慮せず、両性の承諾があるもの・みられるものを和姦と分類した。

強姦的なテーマ・思想を用いている 40作品
和姦的なテーマ・思想を用いている 60作品

データの考察 各種の「劇」と求めるもの

強姦的なテーマを用いたものをさらに分類する。
テーマ1 単純に快楽を追求する
テーマ2 快楽に対する幻想

 仮に強姦する側を行為者(男性が多い)と、強姦される側を被行為者(女性が多い)とする。

 1のタイプのほぼすべての作品に見られる特徴は何か。
 両者の間に心理的な交流は見られない。また行為者が被行為者に確認するのは肉体的快楽の有無である。
 2の場合、行為者が被行為者に対し好意を持っている場合がある。交渉後両者の同意に到るケースも見られるが、全人格的な観察からの合意ではないことが多い。性的な快楽と心理状態とを混同したフェイクの恋愛関係を構築して終了していることが多い。
 
・特徴
 肉体的快楽の偏在。被行為者に快楽が存在するかどうかは問題としない。
 感情の遮断。
 行為者の主体化と被行為者の客体化が著しい。
 被行為者は対等ではなく物体として認知される。
 行為者は人間を破壊・玩弄する快楽、肉体的快楽、所持と行使の快楽を得る。
 
 つまり強姦は被行為者の客体化と快楽の搾取である。

・強姦はなぜデータの4割を占めるか? なぜ支持され、消費されるか?
 この4割には単純に快楽を追及するタイプ(単純強姦)と、快楽に対する幻想(被行為者内の心理において、性的快楽と好意を混同する)を用いる(和姦化)タイプが混じっている。このうち単純強姦の作品は15。残りの25は何らかの形で、強姦を和姦化している。これらは作り手の倫理観念または罪悪感から単純強姦のスタイルに補正を加えているものである。見逃せないのは和姦と分類された中にもこの幻想を使用している作品が多いということである。また、両性の承諾が曖昧なまま性交渉が行われる場合、強姦か和姦かという線引きは難しい。また、所持したい・征服したいという欲望は両性の間に普遍的に存在する。女性作家の創作するショタ系の漫画・ゲイ漫画にも強姦は存在する。とはいえ全体数と比率から、非常に少ない。

 強姦には快楽という面からのみ見て強い作用と刺激がある。
 まず「所持」。欲するものを手に入れるという人間の根源的な欲求であり、幸福である。
 次に「破壊」。禁忌を破壊し無視すること、人間という存在を破壊すること、人間の感情を無視し去ること、これらはすべて後ろ暗い快楽をもたらす。
 次に「行使」。人間は、客体(石や木)よりは本来主体的なもの(動物)に力を及ぼすことに強い満足を覚える。
 最後に肉体的快楽が加わる。
 行為者の多くの側である男性は、社会的役割として、目的を達成し、行為を及ぼすことが重視されてきた。歴史的にも記録されているのは「王」であり、記録されるに足ると認められているものは、「英雄が何をしたか」である。何を感じたかではない。男性の根底には感情より行為に重点を置く価値観が一貫して植えつけられている。男性の心理からすれば、感情の交流や何か情動を起こすことは二次的なことであり、それよりは行為こそが馴染みやすく満足しやすい。所持・破壊・行使の3つの要素はすべて行為にまつわる快楽であり、男性側にとり直結的に満たしやすい情動である。
 同時に、こうした劇の中では、肉体的快楽は合意なしにも自動的に発生すると暗黙のうちに「信じられている」が、真偽は不明である。一般的に、劇は、真実より都合の良い幻想やステレオタイプを好む傾向が強い。いずれにせよこの前提は被行為者に適用される。表現の受け手は何を煽情性のよりどころとするか。驚くべきことにそれは被行為者の苦痛よりは快楽である。これらの単純強姦の劇のほぼすべてに、暗黙の前提による肉体的快楽は被行為者に与えられている。何故か?
「所持」「破壊」「行使」のほかに、抜きがたいもう一つの欲求「愛」があり、このためにもう一つのタイプの強姦の劇が生じている。

 強姦を和姦化するのはなぜか?
 これらの劇の中では「肉体的快楽は合意なしにも自動的に発生する」という暗黙の前提によって、快楽を一方的に与えるという図式が成立している。
 これには上記3つの行為的な快楽の正当化、罪悪の打ち消しがあげられる。
 また、強姦は被行為者の客体化と快楽の搾取に過ぎない。と同時に、行為者の偏った快楽の享受にとどまり、精神的な虚無感、愛されたい・他者からよく思われたいという虚栄心は決して充足されない。他者から認められることや想われることは対等な関係からのみ生じるが、客体化からはそうしたものは生まれない。合意なしに生じる快楽を被行為者に与えるのは、対等な関係なくしても快楽という共通の地平上に行為者と被行為者を置くためである。ここに快楽と好意の混同が生じる。
 快楽に対する幻想(合意なしの快楽・快楽と行為の混同)は、被行為者を行為者と対等な関係に擬似的に復帰させる。「感じれば和姦」という幻想である。ただし快楽を与える側、所有者としての優位性は行為者に留保される。
 少し考えればわかるが、精神的に快楽と愛は厳密に分離されており、「レイプから始まる恋」といったたぐいの幻想は、実相には存在しない。

和姦的なテーマを用いたものは
1 作品の土台に感情の交流がある
2 愛情の確認・達成を目的とする
 ものが多い。

 単純強姦の劇と異なり、和姦の劇では性交渉は同意によって行われる。交流を前提とするため一方的な行為・被行為という図式は存在しない。
 
・特徴は何か?
 単純強姦の劇が一定化されているのに較べ、非常に劇のバリエーションが豊富である。愛情の醸成や確認、合意といった目的を達成するための劇であるから、単純強姦より、比較にならないほどその過程が幅広い。
 また、自由恋愛という思想によって作られている。これは一時代前の男尊女卑的な(漫画というより劇画に近い)作風から離脱している。何故か? サブカルチャーは常に守旧的な倫理観と対立する存在であり、新しいもの、自由なもの(倫理を問わない)を目ざす傾向がある。ことに目的である自発的な好意・愛は対等な関係において生じるため、劇にも自由恋愛が選択される。
 ノーマルな性交渉の場合、男性には女性に快楽を与える・生じさせるという快楽が強い。行って達成するという行為に根差した快楽である。表現の特徴としては女性の状態を描き、男性は意図的に省かれる。女性の表情・姿態・体位・発情の度合いなどを詳細に、視覚的に表現することに全力が注がれる。快楽の基準・認識は肉体である。

・特異点となるのが、女性と男性が逆転した劇である。または、女性作家が創作した劇である。そこで以前ショタ系同人誌を研究しようと思い立ったのだが、なかなかサンプルがなくやめてしまった。
代わりにレディースコミックをいくつか観察したところ、青年雑誌のそれのように性描写の追及に相当な重点を置くという作品はあまり見られない。

私たちは本能が知らない時代を生きている

 実をいうと。この章に書こうと思っていたことの9割は、すでに持統院氏が書いてくださっている。 ただ、細部のディテールは異なる部分もあるし、私なりに「せっかく準備した」感もあるので、やはりあらためて書いてみようと思う。


 左のグラフを見てみてほしい。これは統計学の基礎を学んだ人なら知っている、「正規分布曲線」のグラフである。赤が女性、青が男性。「重なり具合」は不正確だがカンベンしてほしい。

 たとえば、これがある年代の身長のグラフであるとしよう。左が低身長、右が高身長、上が人数である。女性aさんは、女性の平均値の身長である。仲間はたくさんいる(上方向、人数がたくさんいる)。女性bさんは、平均よりだいぶノッポで、仲間は少ない。
 男性cさんは、男性の平均値の身長である。仲間はたくさんいる。男性ceさんは平均よりかなり背が低い。男性dさんは平均よりかなり背が高い。
 女性bさんが、男性の平均より背が高いからといって、「女のくせに!」と言うのは言いがかりだ。女性をあらわす、なだらかな赤の曲線の一部にいるにすぎないのだから。同様に、男性eさんが女性の平均より背が低いからといって、「男のくせに!」と言ってもしょうがない。
 ここまでは「身長」の話。

 「身長」を「腕力」にすげかえても、ほぼ同じことがいえるだろう。男性の腕力の平均値は、女性の平均値より上。これは事実だ。それが事実だからといって、女性bさんが、男性cさんより腕力があることを否定することにはならない。

 有史以前、ヒトが生きることは、現在よりずっと大変だったはずだ。まず、(植物性、動物性を問わず)食物を集めるだけで、大仕事だった。病は、現在よりはるかに深刻な災厄だった。道具も機械も、医術も薬品も未発達だった。
 死は、いまよりはるかに「身近」なものとしてあった。乳幼児死亡率は高く、その分、女性の生涯出産数は今よりも多かったろう。(教育費がかかる、とかいう雑念もないですしねぃ) 妊娠と、乳飲み子を抱える期間、女たちは遠出ができない。一方、男のほうが(平均として)腕力が上である。剣と弓矢を扱うのに、女性より有利だった。
 狩猟と戦争が男の仕事、という男女分業は、いたしかたのないことだったのではあるまいか。
 だが。持統院氏がおっしゃるほど
「当時はレイプという感覚は今よりは薄かった」
かどうかは、私は疑わしいと思う。
 男たちが、狩猟に、戦争に、「家」を離れて遠征する間、パートナーである女たちを「味方の(村の、国の)男」たちが手にいれることを禁止しなければ、男たちは(村長に、王に)従わなかっただろう。必然として、「権力」はとりあえず「保守主義定義のレイプ」を禁じる方向へ進まざるを得なかったはずだ。味方の女性への手出しを「掟」で禁じる一方、敵の女性は戦利品ともなった。「がんばって戦わないと、お前の妻も娘も敵の戦利品になってしまうぞ」。それは兵士を戦わせるモチベーションとなりうる。人間は、「嫉妬するサル」だから。
 武器というテクノロジーが発達し、野獣たちが相対的に弱体化すると、命がけで戦う主な相手は人間へと移行したのではあるまいか。戦に命をかける男たちと、「守られる」存在としての女たち。その類型(ステロタイプ)が、「男尊女卑」の根底にあったのだろうと思う。

 当初の予定では、次に、こう述べるはずだった。
「だが。核爆弾は、戦争を茶番にかえてしまった。戦車と兵士が領土を占領しても、その地を奪われたくないという狂気にかられた支配者が核を落とせば、その地は焼き払われる。占領とは、軍事拠点であろうが人的資源であろうが産業であろうが、その地が機能することを前提としてなされるはずだが、その価値は一瞬にして灰燼に化すのだ。」

 この準備稿を某“自称”軍事オタク氏に見せたところ、数分で粉砕された(笑)

 彼の視点では、戦争は「茶番になった」とは言いがたい。
「戦争が激烈になりすぎて、男だけでまかないきれなくなったんですよ。民族が消滅させられるかどうかという、そこまで行き着きましたからね」
 と彼は言う。
「WW1でもWW2でも、女性は戦争に参加してます。フィンランドはソ連と戦ったとき、女性を大量に動員しました。彼女らはロッタと呼ばれ、前線正面では働かなかったけれど、警戒任務や対空任務、通信、輸送、補給などの後方任務をやってます。ロシアでは女性のエースパイロットもいますよ」
 そして、戦闘機は、前線を飛び越える。
「東京大爆撃だの重慶爆撃だのゲルニカだのドレスデン空襲だの、死んだのは後方の女子供ですよ」

 戦争についての視点(ビジョン)は違うけれど、結論は結局変わらない。テクノロジーは、男性と女性の「腕力」の差を埋め、男が守る前線を飛び越えて。男が守る、女が守られる、という構図を突き崩してきたのだ。

 かつては社会の多勢は「男尊女卑的価値観」と、「保守主義的レイプの定義」を受け入れた。だが今はコンセンサスは別の方向へ振れている。
 戦争において男が女を守る存在でなくなれば、戦争を根拠にしてきた「男性性」の価値は相対的に低下せざるをえない。……くれぐれも誤解しないでほしいのだが、これは男性個人の価値うんぬんの話ではない。あくまで、「男性は女性に対して特権をもつ(べきである)」という考え方の"根拠"としての「男性性」の話である。
 だが、テクノロジーによって「男性性」が切り下げられてきた時代は、あまりに短い。ホモサピンスとなって20万年、「本能」はそれより前の「種」から積み重ねられてきたものであろうけれど、その長さにくらべると、ほとんど「無」にも等しい薄皮。本能が変化するには、まったく足りない短い時間である。
 だが、かといって。根底が変わってしまったのに、変わらないふりで「本能」だけに従うこともできないだろう。
 それでも本能が後生大事だという男たちは、まず剣と弓矢限定で戦争を始めるべきだ。女たちは、16,7歳で結婚し、数年に一人ずつ子供を生み、半分以上を幼いうちに失わなければ計算があわない。そして両性とも、自分は50歳に満たずして死になさい(私信:ごめんよ、死になさい、って書いちゃったw)。女性を子産みと子育てへに最大注力させ、男性に狩猟と戦争を分担させた「本能」は、その算術にあわせチューンアップされてきたのだから。

 原始社会においては、衣食住、それぞれにかけるべき手間と時間は長く、明かりがなければ夜も長く、そして寿命は短かった。余暇としての時間は、今よりはるかに短かったろう。適性なぞを見ている暇はなかった。男はとりあえず狩猟と戦争のやりかたを仕込まれ、女はとりあえず植物を集める方法や機を織る技術を仕込まれた。
 だが、いま、私たちには時間がある。まず自分自身が何をしたいのか、パートナーが、娘が息子が、その人個人として、何に向き、何をしたいのか。「男だから」「女だから」ではなく、個人の適性と指向とを見極めるだけの時間があるはずだ。
 まして、性は。
 力づくでむさぼるより、絆をはぐくむだけの時間を、私たちは持っているのではないだろうか。



 ただし。
 もう一度最初のグラフに戻ってほしい。
 男性と女性の間で「平均」が異なるのは、腕力や身長だけではない。腕力に伴うものなのかもしれないが、いま、現実の数字として、「犯罪率」も男性のほうが高い。
 平均よりも「犯罪性」の高い個体「d」は、少数ではあるが実在する。集団から切り離されたミュータントではなく、集団のなかで、ある確率で存在するのだ。
 前のコメントに述べたとおり、「犯罪を犯す前から拘束することはできない」。
 私たちは、その存在をも、予測し、対処しなければならないのだと思う。



※教育の問題に触れることができませんでした。
「このブログを18禁にした理由」を軽く書こうかと思っているので、そこで触れたいと考えています。


※これまで書いた予告類のなかで、「デズモンド=モリスについて触れたい」という公約wが果たせていません。これは「イラクサ」ではなく表で書いたほうがいいかな、という気もしてます、考え中。

備忘メモ:
・デズモンド=モリス、「ふれあい、愛のコミュニケーション
・オキシトシン、バソプレシン、プレーリーハタネズミ、サンガクハタネズミ。
・双子研究、三歳児神話の終焉。

4/19:アルファベットが1つ違ってました。orz
取り消し線修正。

沈黙と18禁

 私は「ブログ論のブログ」を書くようになる前に、何年か、ゲームブログを書いていた。とにかくこういう性格なもので、ゲームブログでさえ激論系だった(笑)
「私の言葉は、軽いナイフではありません。持ち嵩りのする出刃包丁です」
 と、タンカを切ったのは当時のことである。ちなみに、「女狐僧正」という二つ名は、そのゲームで、回復僧正として仕えた君主に賜った。


 ンでもって、最近。「ブログ論系」の身近で、ちょっとした諍いごとがあった。細かい事情は全て省くが、私にとって、選択肢は2つあった。対立構図になった両側にむかって出刃包丁振り回すか、(少なくとも表では)沈黙するかである。私は沈黙を選んだ。もっとも、年齢が上のほうの方には、私信で忌憚のないところを申し上げたので、言い残したことはない。若い方の方とは交流が切れた。切れてようやく、このブログを書くことにした。

 巻頭言で、「私の沈黙の誓いも果てた」と書いたけれど。このブログで破った沈黙には、もう一つある。6年か7年前まで、私は、主にNIFTYなどで、それなりにフェミニズムやセクソロジーに関して発言をしていたのだが、この数年は沈黙していた。
 なぜ沈黙したかというと、ある交流範囲のなかで自分が書きたいものはほぼ書きつくして、これ以上を書くと繰り返しに陥る、と感じた、というのが、一因ではある。だがもっと大きかったのは、フェミニズムが「女性を」幸福にしたか、その根本に疑問を感じた、ということがある。
 このブログの最初に書いたように、フェミニズムは「私を」幸福にした。あの時期、フェミニズムに出会っていなかったら、私は今よりもさらに惑い、身近にいるものの価値観に屈した進み方をし、結果として自分自身の感覚にあわない生活を自分に強いていただろう。フェミニズムは私を幸福にした。この言い方にもし語弊があるとしたら、フェミニズムは私をある種の不幸から助け上げた。
 だが、私は、身近の女性の友人たちが、「かつての価値観」であれば順風満帆の生活……本人が望んだ相手との結婚、専業主婦、子育て……を送りながら、
「イマドキ、これでいいのかしら」
 と、疑問を口にするのを見てきた。
 たとえば、である。私という一人が、フェミニズムによって10の「幸福度」を得たとしよう。しかし11人が1ずつ「幸福度」を減じていたとしたら、その集団は、フェミニズムによって幸福になったと言えるだろうか。
 フェミニズムは私を幸福にした。けれど、フェミニズムが「女性を」幸福にしたか? そこに疑問をもったときに、私は、「私の幸福」を喧伝しつづけることに躊躇を感じて、口を閉ざしたのである。

 数年のうちに、交流の範囲がすっかり入れ替わって、「同じ方たちに同じことばかり読ませている」という状況が変化したこともある。それから、世間において、男女均等が進み、その分、フェミニズムやセクソロジーの声が小さくなった気がするというのも少しある。私はもう一度、いま、お付き合いのある方たちの前で、自分の立脚点をまとめてみたいと思ったのもある。

 とはいえ。「WEBでオープンに公表はするが、18禁」というハンパな形を取らさせていただいた。
 読んでいただいた方のなかには、お気づきの方も多いと思うのだが、今回書いた内容は、成書のなかにあった仮説にさらに自分の仮説を積み上げている部分がある。ご自分の考えがすでに確立している方であれば、「こんなことを考える奴もいるのか」で済むが、まだ観念が固まってないティーンエイジャーに見せて、その人の考え方の「基礎工事の部分」に組み込まれてしまうには、いささか自信がない。

 かなり「オタク」系の話になって恐縮だが。
 私は、中学1年まで「赤ん坊がどこから生まれてくるか」理解していなかった。「オクテ」というより、ちとばかり「ぼんやりしている」と言うべきであろう。中1でそれを知って、とっても驚いた……、という話は、ある方のブログのコメント欄で、ちらっと書かせていただいたことがある。
 で。クラスに、当時はそんな言葉さえなかったと思うが、「いまでいうオタク」の人たちがいて。中学2年で、「いまでいうBL」系の話題を知った。「男性/女性の常識」が自分のなかで確立するまえに、違う知識が流入している感じである。現在の私が、同性愛というものにまったくタブー感を感じることができないのは、どうも、このせいではないかと思うのだ。

 よく、語学の習得には、「適齢期」があるという。肝心の年代には諸説はあるようだが、ある年齢までに習得するのが効率がいいようだ。性の常識、モラルといったものにも、なにかそんな「適齢期」があるのではないかという気がするのだ。(これについてはまとまった研究をみたことがない、直感的に書いています。なにかデータご存知の方は教えてください)

>男児に向けて「わたしたちが子どもに教えるべき」ことも考えたいと思います。
 と、トリップ氏はお書きになっていた。

 率直にいえば。男の子に「レイプをしてはいけない」と教えることがどの程度効果的か、私は疑問に思う。
 性は、タブーの帳(とばり)のなかにあって、けれど好奇心を誘う。
「セックスの話を、してはいけない(けれど魅力的)」
 と、
「レイプをしてはいけない」
 が、同じ帳、同じ魅力のレベルに、「間違えられて」はいけないと思う。
 むしろ教えるべきは、「レイプをしてはいけない」ではなく「愛のあるセックスに精だす」ことの大切さなのだろうが、いわゆる性教育はかならず「寝た子を起す」批判を浴びる。
 実際、子供の成熟度は一人一人違い、興味の度合いも違う。同じ歳の子供を一律に扱わざるを得ない学校教育では、個体差にあわせた教育はきわめてフォローしがたいし、学校の教室で学ぶ性にはタブーの帳の魅力はない。

 たぶん。コミックとかライトノベルとか、あるいはインターネット経由で、密やかに、したたかに、大人はそれを伝えるべきなんじゃないかと私は夢想する。

 ところが現実は。インターネットの普及により、子供たちは、本屋で店員の目をうかがうだけの躊躇もなく、さまざまな性情報に触れるようになった。
 私はこのブログを《FC2》アダルトカテゴリーに「沈める」にあたり、ランキングをざっとたぐってみたことがあるのだが。
 愛は、ないな(苦笑) 
「性情報にいっさい触れさせるな」という昔のPTAのようなことを言うつもりはない。ただ、ネットにおける性情報は、レイプを否定しないビデオや動画、恋愛感情をともなわない快楽だけのセックスを是とするいわゆる「出会い系」の情報の比率が異様に高い気がする。いや、ネットが普及する前から、「男性向けの性情報」はそういうものだったのかもしれない、私がよく知らないだけで。問題は、それが、子供たちにあまりに手軽に手に入ることだ。

 最近、若年層むけのフィルタリングという技術も始まったようだが。「エロか否か」ではない、もっと別の切り口が、必要であるような気がしてならない。

──などと、冷めた目で見ているのは、やっぱり私が自分で子供を生んでないせいなのかもしれないが……。

2008年04月

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