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 アンデルセンの童話「野の白鳥」で、沈黙の誓いとともに編みあげたイラクサの帷子を白鳥たちに投げた後、エルザは叫ぶ。「私は魔女ではありません!」
 私の沈黙の誓いも果てた。「私は自業自得論者ではない!」叫ぶためだけに立てたささやかなブログ、十八禁。コメントいただける場合には、ローカルルール必読でお願いします。
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◇更新履歴◇

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このブログについて

このブログは、いわゆるポルノやヌードを掲載するものではありませんが、大人を読者とした真面目な議論として、「性」に関する話題を扱います。

・吐き気がするほど醜悪な事を論じる予定があります。トラウマになっても責任をとりきれないので、十八歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。耐性が弱いと自認なさる方も、閲覧なさらないほうがいいと思います。

追記にローカルルール

・私が運営するブログでは、通常、お客さま同士の戦闘的なコメント交換をご遠慮いただいておりますが、このブログは例外とし、当ブログにて議論の場所を提供します。
・内容が内容なので、捨てハンは拒みません。ただし、成りすまし防止のため「PASS」の設定を推奨します。また、当ブログ内での同一人複数ハンドルの使用はご遠慮ください。悪質な場合は、IPをさらします。proxyは拒否登録する可能性があります。
・「あきらかな宣伝スパム」「議論に参加していない第三者への攻撃」「個人情報の漏洩」「同語/同意反復」「無意味文字列など明らかなアラシ」などについては、コメントを削除をします。
・コメントへのレスは、ブログ主の自由権とさせていただきます。レスをしないこともありえますので、あらかじめご承知おきください。
・ブログ主が管理しきれないほど荒れた場合はパスワードで閉じます。非公開予告時のWEB魚拓は、削除申請で対抗します。
・引用は、引用の慣例の範囲で。無断転載は著作権違反としてブログ等の削除申請を行ないます。(ま、最後の条項はないと思うんですけどねw)
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経緯~「自業自得論」

 このブログの根幹は、拙ブログ『ブログで小説!』に書いた「Dear Lady, 明るい道からお帰りなさい」という私の記事へのコメント欄において、私があたかも「自業自得論者」(性犯罪の犠牲者は、隙があったことへの自業自得であるという論議を唱える者)であるかのような流れになってしまったことへの釈明である。
 私は自業自得論者ではない

 まず、議論の参考資料として、いただいたコメントを、コメント者の許可をいただいて転記・再掲する。コメント者のお名前はアルファベット1文字であったので省いた。(トリップ同一であることは下記のとおり)。
 コメント中に登場する第三者のお名前は、失礼とは思ったが伏字とさせていただく。理由はご本人には説明済みであるので、他の方々もご了解をお願いしたい。
 記事自体は、FC2WEBのディレクトリパスや2styleのbasic認証機能の紹介であったのだが、事情があって現在は非表示になっている。コメント自体は、タイトルとほぼ対応するので、記事の内容はここには再掲しない。(記事に関しては、書き直しの上、別のブログに再掲の予定)

 


[無題]
かつて明るい道を通っていて被害に遭ったことがあります。
それは幼かったため、被害を被るかもしれないことはもちろん、そのような行為自体があることさえ知らなかったせいであるからかも知れません。
そのような事例を前もって知っていたならば、その恐怖や危険を予感して逃げることができたのかも知れません。
その意味では、阿檀さんや[XX]さんの例示はとても価値のあるものだと思います。
2008-01-13 Sun 14:47 | #TiL4P/BY



[どんな明るい道を通っていても]
危険にあう可能性を減らすことはできても、ゼロにはできないのですよね、悲しいことですが。
ゼロにできないのだから、どうでもいいのか、
明るい道でさえリスクがあるのだから、ましてや暗い道は避けておこう、なのか……。

コメントありがとうございました。
2008-01-13 Sun 21:32 | 麻生(阿檀) #nzi/10PQ


[無題]
ゼロにできないのだから、せめて声高に言いたいと思います。
問題の本質は、加害者の悪行にあり。そこに少しでも被害者の非を論う文言が挟み込まれることによって、例えそれが被害を受けないための願いを込めての警鐘であったとしても、その文言によって加害者の罪の意識を軽くしてしまうことがないように留意しなければいけないと思います。
これは、リンク先の[XX]さんのところに書かれている文言に対してで、阿檀さんにではないのですけど、ごめんなさい。こちらで失礼しました。
2008-01-14 Mon 00:07 | #TiL4P/BY



[実はこの議論は蒸し返しです。]
>問題の本質は、加害者の悪行にあり。そこに少しでも被害者の非を論う文言が挟み込まれることによって、例えそれが被害を受けないための願いを込めての警鐘であったとしても、その文言によって加害者の罪の意識を軽くしてしまうことがないように留意しなければいけないと思います。

はい。ごもっともです。

実はこの議論は、1年ほど前のとある議論の「蒸し返し」でして。そのときにはそれに近い話題が出ておりまして、[XX]氏も、「犯罪を犯す側が悪いことに疑問はない」という趣旨の発言をなさっています。

旧議論へのリンクを貼ろうとURLを探したのですが、それを貼ると記事中のイラストサイトの方のブログURLが画面内に出てしまいます。私は根本的にはリンク自由論なんですが。この場合には少々抵抗がありまして。私の下手な要約で少しでも旧議論の流れが伝わるとよいのですが。
2008-01-14 Mon 20:28 | 麻生(阿檀) #nzi/10PQ


その文言によって加害者の罪の意識を軽くしてしまうことがないように

その文言によって加害者や加害者の一歩手前で踏みとどまっている人の罪の意識を軽くしてしまうことがないように

に訂正します。
じゃあ、いいんだ、になっては本末転倒です。
2008-01-16 Wed 00:21 | #TiL4P/BY



[じゃあいいんだ、とは、]
「じゃあいいんだ」とは私も考えていませんし、[XX]氏もだと思います。
無用心なことをしてリスクの可能性が増える、その増えた分のリスクの責の、すくなくともいくぶんかは、無用心をやった者が負うんじゃないでしょうか。犯罪者の責は、無用心な行動があるときとないときで、少しも減ってない。そんなイメージ。少しイメージに偏りすぎかもしれませんが。
2008-01-16 Wed 20:48 |麻生(阿檀) #nzi/10PQ


[犯罪者の責が減らないのは当然ですが]
説明不足ですみません。
加害者がいれば必ず被害者がいるということになりますから、わたしが被害から逃れただけではどこかに被害者がでると思うのです。
どこのわたしも被害に遭わないためには犯罪者の絶対数を減らすしかないです。
公共の場で被害者の無用心を論う言い方をすれば、見ている犯罪予備軍の後押しをしているようなものだと思えてしまいます。
犯罪の一歩手前で踏みとどまっている人に、世論が無用心を自業自得としているなら、じゃあ、いいんだ、という意識を持ってもらっては困ると思うのです。
2008-01-16 Wed 21:23 | #TiL4P/BY



[そうなのでしょうか?]
さん
>加害者がいれば必ず被害者がいるということになりますから、わたしが被害から逃れただけではどこかに被害者がでると思うのです。
そうなのでしょうか? 現実にはなかなか難しいことではありますが、犯罪者予備軍がいて、そのターゲットの100%が犯罪を実行するに足る「隙」を見せなければ、犯罪の成立数は(捕まってでも犯罪を完遂してしまう犯罪者もいますから、ゼロにはならないにせよ)激減するのでは?
>どこのわたしも被害に遭わないためには犯罪者の絶対数を減らすしかないです。
犯罪の意図を減らすことはできませんが、犯罪成立の数を減らせば、被害者の数は減るのではないでしょうか?
そのためには、「みんなが(←漠然としてますが)」もっと「用心」する、「隙を見せない」ことが効果があるのではないかと思うのですが。楽観論にすぎますか?
2008-01-16 Wed 23:00 | 麻生(阿檀) #nzi/10PQ


[幼さゆえに]
わたしは被害を受けたと申しました。
同じように取り巻く環境に善悪を間違えて育つ幼い者もいるのです。
両方の幼さを目の前にして、被害者にならぬよう気をつけよ、ということを言うがため、「自業自得論」をことさら強調するのはどうかと思うのです。
表現の仕方によっては間違って受け取る幼い者がいる、ということを言いたいのですが、疎い文章でお分かりにくいとは思いますが。
2008-01-16 Wed 23:19 | #TiL4P/BY



[率直にいいますと]
[XX]氏の記事のなかで、自業自得、という語は、ちょっと違うのではないかと、私も思います。
「自業自得」というのは、「オ前ノヤッタコトノ当然ノ報イダ」という意味、だと私は思っているんですが、あってますかね?(だんだん自信が) [XX]氏のはなんだか「オレハモウシラン、りすくモめりっとモ自分デ受ケ取レ」みたいな意味で使っていらっしゃるような気もしないでもない。この両者、意味違いますよね??

例えがイマイチですが。どこぞの狐がどっかの掲示板で暴れたら、自ブログに荒しコメントが湧いた。これっくらいだと「自業自得」だと思うのです。つまり、「やったこと」と「されたこと」がつりあっているくらい。

「無用心」だと「犯罪のターゲットになる」これはぜんぜん釣りあってないと思うので。私の使うときの「自業自得」という語からはすでにずれています。
2008-01-16 Wed 23:32 | 麻生(阿檀) #nzi/10PQ


 このコメントの流れだけでは、私はあたかも自業自得論者であるかのようにも読める。だが、このとき、私は充分な反論をすることができていないと感じる。

 「私は、自業自得論者ではない」
 ……そう言明するだけなら1行で済むだろう。
 だが、沈黙している間にいろいろなことを思いめぐらし、何年かぶりにsexualityの問題についてもう一度書いてみたいと考えた。

 「罪の意識を軽くする」ことが性犯罪の増加に繋がるのであれば、「罪の意識を重く」すれば性犯罪は減るはずだ。そうだというなら、何回でも何百回でも、性犯罪は罪だと叫んでみせよう。
 だが、ことはそう単純なのだろうか。
 それを考察するためには、「人はなぜ性犯罪をおかすのか」に踏み込む必要がある。さらに、私の発言に、「公共の場で性犯罪被害者の無用心をあげつらう」意図がなかったことを説明するためには、私のsexuality観の根本から説明しなおす必要があることに気づいた。

 このブログで述べるのは、あくまで「私のsexuality観」である。学術的に証明されたものではなく、主観にすぎないものがほとんどとなる。科学的な研究によって、すでに否定されたものも混じっている可能性もある。ご指摘があれば歓迎。

 現在、いくつものブログをもっているのだが、読者層がそれぞれで、この問題を書くにふさわしい場がない。また増やすのか、と、自分に呆れつつも、ブログを一つ増やしてみた。
 おそらく4記事か5記事書けば自分の気も済むと思うので、少々おつきあいい願いたい。書き手の「夢」としては、読んでくださる方にとって「一口分の思考」を残すものになれば、これ以上の幸いはない。

語り手の自己紹介

 最近、いくつかのきっかけからsexualityの問題について再考する機会があったわけだが。
 私の中では現在、複数の問題が錯綜している。からまった糸玉をほぐすには、どこかにナイフを入れてほどきはじめてみるしかない。どこから始めようか。

 小説のほうの私をご存知の方のなかには、私が「フェミニズムSF」という分野のモノ(踊るアーティチョークのあれとか、子育てアンドロイドのあれとか)を書いていた時期があるのに気づいていらっしゃるかもしれない。
 もともと、私はSF(サイエンスフィクション)のファンである。幼い頃から、リカちゃん人形より、サンダーバードのほうが好きだった。
 母は、それを嫌った。
「もっと女らしく」「あなたは女の子なのだから」
 SFの中の科学者たちに憧れ、サイエンティストになりたい、と言い出した私の夢は、母には唾棄すべきものであった。
「結婚して、子供を生んで、まっとうな人生を歩んでちょうだい」
 母にとっては、それが唯一のまっとうな「女の人生」だったのだ。だが母の示す未来図はいささかも説得力をもたなかった。第一の理由は、母がわが子に自分が幸福であると見せられなかったことである。詳細は省くが、父のあれやこれに、
「男ってそういうものだから」
と諦めのため息をつくシーンしか思い出せない、と書けばだいたいの想像はつくだろう。しかも家の中は当時、嫁姑の問題で夜叉画の呈であった。

 当時の母は、自分の趣味にあわないものに関して寛容になる余裕のない人間だった。舅姑とともに家にいて、外出もままならない身では仕方ないことかもしれない。私が大切にするもの、憧れるものを、ことごとく否定し軽蔑した。私の価値観を否定し、私が行きたい方向へ進もうとすることを阻止しようとする壁だった。当時の私は、母を憎んでいた。
「私は、結婚したくない。お母さんのような不幸な人生は歩まない。私は、結婚したくない。子供を生むなんてまっぴらごめん」
 私は母になることを恐れた。なんせ、私自身の母は、自分の腹を痛めて生んだ娘に憎まれてやまない存在だったのだから。

 私は母の望むお嬢様系の女子大を拒み、別の大学に進学した。
 そして、そこでフェミニズムに出会った。それまで、「母の方向にはいきたくない」と、ぽっかりあいた残りの359度のまんなかで立ちすくんでいた私は、初めて、「こっちへ来ていいんだ」と呼んでくれる存在を得たのだ。


 小説作法であれば、とんでもないネタバレだが。これは小説ではないので、最初に結末を書いてしまおう。私は現在も結婚していないが、母とは和解している。
「あなたみたいな生き方もあるってようやく思えるようになったわ」
 母にそう言い渡されたのは、私が三十を越えて数年したときだった。


 さて。今回、ちょっとした事情で自分のペン(?)が鈍って、
「この文章じゃ、まるで自業自得論者みたいだ」
と思ったときに、浮かんだのは学生時代のフェミニズムの師の、セカンドレイプ行為を厳しく批判する口調である。あの女(ひと)に直接の教えを受けたのに、こんなもんを書いてしまった、という痛みがあった。
 遅ればせになってしまいはしたが、あらためて真意を記してゆきたい。

ヒトにそれを強いるかわり、それを勧めるのに欲望、それに報いるのに快楽を与える。

造物主は人間に生きるがために食べることを強いるかわり、それを勧めるのに食欲、それに報いるのに快楽を与える。

『美味礼賛』(byブリア・サバラン)
「人はなぜセックスをするの?」
 と聞いたら、
「子供をつくるため」
とこたえた人がいた。

 この答えには一面の真実があるのだろう。
 私が学生時代、フェミニズムとの出会いを果たしたことは、先の稿に書いた。ほぼ時期を同じくして、私はもう二つ、自分に強い影響を与えるものと出会っている。
 一つは、ドーキンズの『利己的な遺伝子』である。もう一つはデズモンド=モリスの著作であるが、内容についてはそのうち紹介することになると思う。
『利己的な遺伝子』は、生命を遺伝子の運び手として捕らえ、遺伝子にとって有利な方向に進化したと説く。遺伝子の増殖にとって選択肢は一つではない。たとえば大腸菌のように簡単で脆弱な「体」をもち、すごい勢い(約20分に一度)分裂増殖するという「戦略」もあれば、ホモ・サピエンス……「ヒト」のように複雑なかわりに、増殖に時間がかかる(成熟に約20年)システムを採用する「戦略」もある。
 「有性生殖」というのも、長い進化のなかで採用された「戦略」の一つにすぎない。遺伝情報を混ぜ合わせることによって、多様な個体を得る。そして、環境の変化に対応するのである。
 ヒトがセックスをやめたら、滅亡してしまう。そういう意味では、セックスは、ヒトという種と、ヒトがもつ遺伝子が存続するために「必要」である。
 生命の長い歴史において、雄はセックスの機会を獲得するためにさまざまな努力をした。雌雄選択の勝者となるために、他の雄と戦って勝つとか、雌の気をひく貢物をするとか、種にもよるし、ヒトでは個体によるだろう。
 が。ヒトという種において、一生のうち何度セックスをするのか。そして何度子供を作るのか。その数を引いた値はすべて「無駄」なのか?
「人はなぜセックスをするの?」
「子供をつくるため」
 その答えには一面の真実はあるにせよ、それがすべてではない。
 ヒトには、「発情期」というシステムがない。ヒトの成熟した雄には、動物の発情期/非発情期のように、明確に「性欲」を失う時期がない。ヒトの雌には、「排卵期」を雄に教えるものがほとんどない。
 最初に述べたように、ヒトは「複雑になる」という戦略の道を進んできた。代償に、子供が成熟するのに時間がかかるし、そのための「ケアのコスト」も多大なものになる。この負担を雌だけでは負いきれなくなった。雌は、セックスという対価を置くことによって、雄に餌を運んできてもらい、野獣や他の雄(自分の気に染まない、あんな雄の子供は産みたくないと思う雄)から守ってもらう、というシステムを採用した。これが「家庭」へと進化したのだろう。
 ただし、雄の遺伝子にとっては、多くの雌とセックスし、あちこちに多様な子供を得たほうが有利である。
 よく「男の浮気は“本能”」などと言う方があるが。正確には“本能”という言葉は、正しくないらしい。生物学などでいう“本能”の語は、厳密には、ビーバーの巣作り、カッコウの託卵、ミツバチのダンス、サケの遡上、クモの巣作りのように「誰にも教えてもらわなかったのに、やり方を知っている」ことに使うのだそうだ (wikipediaより)。誰かに教えてもらう前から、セックスのやり方を知っていたって方、どなたかあります? 少なくとも、私は知らなかった。
 しかし、ヒトにおいても、ホルモンやフェロモンや条件反射によって、「意思や理性を超えて欲望に囁きかける」何かがあるように思う。
 誤用というか拡大解釈であることを承知のうえで、このブログ内ではそれに“本能”の語をとりあえずあてる。もっといい語があるのをご存知の方があったら、教えてください。

 ところで。浮気は男の“本能”、レイプは“本能”の延長線上、という言い回しを使うと、たぶん「お前は浮気やレイプを肯定するのか」というお叱りがでてくる。(いままでの議論経験からはそうである)
 あらかじめ、書いておく。「私は、“本能”を“善”と言った覚えはない」。
 私は“本能”を善とはしない。悪ともしない。ただし、そこに、あると思う。

 ブログの1記事の分量としてはこんなもんかと思うので、ここで区切る。

次回以降の予定
・『蝶々の纏足』と『わが愛しき娘たちよ』
・レイプを分類する…レイプと「悪の自覚」
・個の欲望と、群れの掟
・私たちは、“本能”の知らない時代を生きている

快楽を与え合う快楽~山田詠美『蝶々の纏足』によせて

「人はなぜセックスをするのか」
 十数年前、Nifty某フォーラムで、この問いに「快楽」と答えた人は、ある論客にこう蹴散らかされていた。
「エクスタシーなんてさ。マスタベーションのほうが効率的に得られる。なんせ、どこが一番イイか、判っているのは自分なんだから」
 懐かしい論客氏に敬意を表して、問いを少しアレンジしよう。
「人はなぜ、マスタベーションに留めずに、セックスをするのか」


 山田詠美に『蝶々の纏足』という作品がある。ヒロインは、麦生という名の少年の部屋を訪れる。

 初めての男の部屋に足を踏み入れた時、私はキスすらした事のない無知な女だった。けれど、快楽というものは具体的に知っていた。私の頭は想像力にたけていたし、それが命令して動かす、私の指たちはとても勘が良くて賢かったから。

 私は麦生の体の重みを感じながら、ああ、足りなかったのはこれだったのだと気づいた。そして、私は快楽や痛みを訴える小さな叫びが、どれくらい男を幸福にするかを悟った

 この回答は明確で、美しい。
「自分だけで得る快楽より、パートナーと与えあう快楽のほうが価値があるから」。

 だが。このテーゼは、レイプの場合でも同じだろうか? 


 話はかわるが、私はフェミニズムの恩師にきつく言い渡されたことがある。
「異質なものを混同して扱ってはいけない」
「女の敵は男だ、というような、粗雑なレトリックを玩ぶ人たちに、とりわけ注意しなさい」

 この伝でもう一度問いかけてみよう。
 レイプは、すべて同じだろうか?レイプという一語のなかに、異質なものを混同してはいないだろうか?

 レイパーは取調べや裁判などで、「和姦だと思っていた」と主張することがあるようだ。
 それが、罪から逃れるための言い訳ではなくて、本気なのだとしたら、彼はたぶん、
「いやよいやよも好きのうち」
的な戯言を信じたあげく、犯罪を冒してしまった大馬鹿者だということになる。

 ちょっとわき道にそれるが、個人的には、この、
「いやよいやよも好きのうち」
という言葉が、心底嫌いである。これは女性に「その意」があることを伝える能力がないと決め付ける言葉だ。なめんじゃねぇぜ。

……は、ひとまずおいておいて、だ。

 女性に、
「明るい道をお帰りなさい」
と声をかけることは、この種のレイプを助長するだろうか。
 用心深い女性は、男性と二人きりで、暗い道から帰ったりしない、と思うのだろうか?。「近道から帰ろうか」と誘ってついてきたのは、彼女もその気なのだと? しかし、もしかしたら彼女は、「この人はいい人みたいだから疑ったら悪い」とつい断れなかったのかもしれない。あるいは、「ここで断ったら、誰がお前なんか、と腹の中で思うかも」と考えてしまう自信のない女性なのかもしれない。……という可能性を、彼らは本当に考えなかったというのだろうか。もし、それが、
「好きのうち」
ではなく、本当に、
「いや」
なのだったら、(元はあったとしても)信頼は失われ、犯罪者として名指されるかもしれないのに。
 そこまで考えてしまうと、男がいくら、
「和姦だと思っていた」
 と主張したところで、信じる価値があるとは思えなくなってくるのは、私だけなのだろうか。

 まあ、
「いやよいやよも好きのうち」
を、「手練手管」として「使う」女性は確かにいる。ただし、そういう女は最終局面まで拒絶の演技を続行したりはしないと思う。それが本物の拒絶か演技かくらい、途中で気づけよ。……と、思うわけであるw。

 もう一つ書き加えておくと。
「明るい道をお帰りなさい」
と声をかける人間よりも、
「いやよいやよも好きのうち」
を手練手管として使う女たちのほうが、「和姦と誤解するレイプ」を助長するンじゃあるまいか。ただでさえ、女にはYesを伝える能力がないのだという愚かな「思い込み」のある男に、思い込みを信じる体験を与えてやっているのだから。


 と、だいぶ十八禁ブログっぽくなってきたところで。もう一つ、問いを書きつけておく。


 レイパーはすべて、
「和姦だと誤解していた」
とか、
「女が隙を見せるから悪い」
という論理でレイプを行うのだろうか。


「明るい道をお帰りなさい」

「公共の場で被害者の無用心を論う言い方」
であり、
「見ている犯罪予備軍の後押し」
であり、
「犯罪の一歩手前で踏みとどまっている人に、じゃあ、いいんだ、という意識を持たせる」
行為であるという非難は、上記の前提を肯定しなければ出てこない。

 ここまで書いて次稿の内容にピンと来た方は、次稿をお読みいただくには及ばない、読んでも不快なだけで、なんの得もないと思うので。

次稿『わが愛しき娘たちよ』……コニーウィリスの短編を足ががりに、サディズムと禁忌の快楽について。

3/17記事改題
「山田詠美『蝶々の纏足』によせて」
 ↓
「快楽を与え合う快楽~山田詠美『蝶々の纏足』によせて」

《FC2》ブログの新機能、「パスワード記事」を試用してみることにした。

 今回の稿では、コニーウィリス『わが愛しき娘たちよ』を切り口に、
また、相手が苦しむ顔をみたい、暴力で屈伏させたいという願望が性と結びつくこともあります。
……という問題を論じる予定でいたが、牛男氏からコメントをいただいたこともあり、多少表現をかえながら、稿をまとめたい。

 ただし、予告どおり、いささか悪趣味な内容となるため、《FC2》ブログの新機能、「パスワード記事」を試用してみることにした。
 なお、今回のこの稿は書評ではない。書評であれば、「ネタバレ」は避けるべきだが、今回は実在事例の代わりにつかうのだから、ストーリーについても紹介をする。読む方はご承知おきを願いたい。

【注記】
 3/8の稿で定義した“本能”の語があまりに不適切なので、“Naturalな欲望”の語を、このブログの中でだけ通用するものとして再定義する。 
 勤務時間中だろうが授業中であろうが、腹が減っている時に美味しそうな料理を見れば、「食べたい」と思い、身体的には生唾が出る。そのときにそれを食べることができるかは別問題である。
 自分の好みの異性とのセックスを望む。それが許される相手であるか……相手に決まったパートナーがいる、相手があなたを望まない……は別問題、欲望を実現できるかどうかは別問題である。その相手の近くに寄ると、動悸が早まったりする。「静まれ心臓!」と己を叱咤しても、なかなかコントロールできるものではない。
 このように、生得のもの、学習によるものを問わず、意志の力で抑制できない欲望を、“Naturalな欲望”と呼ぶことにする。

「悲鳴という媚薬~コニーウィリス『わが愛しき娘たちよ』」
(3/21 エントリー番号間違いを修正しました(汗)
(パスワードは、パスワード入力欄のすぐ上に書いてあります)

悲鳴という媚薬~コニーウィリス『わが愛しき娘たちよ』

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スパイウェア問題にせめてもの方策として

 テンプレートを公式のものに変更しました。(4/1です。記事配列の都合で、この記事は日付が弄ってありますw)

 現在、《FC2》ブログでは、iframe,scriptにより、スパイウェアへアクセスするように、テンプレートが書き換えられてしまう問題が発生しています。

 ソースのチェックがしやすいよう、公式テンプレート+スクリプトなしプラグインにしてみました。

 このブログは、現在おもな対象といわれているゲーム系ブログではありませんが、今後、(クレジットカードのパスワードを盗用するなど)さらにスパイウェアの対象が広がる可能性もなくはありません。
 《FC2》にはいくつかブログを持っておりまして、このブログ以外はヨソへも移動できるのですが、『アダルト』を標榜してしまった『イラクサ…』だけは移設が利きません^^; 動向を見守っている次第ww

個の欲望と、群れの掟……相反する“Natural”の調整

「人間は遺伝か環境か…遺伝的プログラム論」という本に、ホモ・サピエンスは初期から100人から200人の集団で生活していた、という話がでてくる。チンパンジーやボノボ*は、10から20匹の集団になると、分裂してしまうのだそうだ。ゴリラの群れはもっと小さく、オラウータンはほぼ群れをつくらない。人間の群れは、例外的に大きいのだという。
 集団で生活するということは、利害の対立の調整が行われるということだ。育つ途中で、歯を剥いて威嚇されたり、ときには暴力でもっと強いサルに従わされたりして、学習するのだ。


 ヒトもそうだろう。
 集団で在るということは、利害を調整すること。それは、毛皮をまとって穴居していた頃でも、大都会が出現した現在においてもかわりない。集団が大きくなればなるほど、所属個体の多様性は増し、利害調整は難しくなる。
 その結果。ハンムラビ法典から現代の法体系に至るまで、法というものができたんだと思う。都会が「群れ」の“子孫”なら、法は「群れの掟」の子孫だろう。
 この話題ではないのだが。著作権関係の話題にかかわずらっていたとき、私は何人かの「法律嫌い」の方と知り合いになった。
 .

人間には人権があるかもしれない。でも霊長類ヒト科・ホモサピエンスには人権なんてない。人権どころか法律はすべて及ばないでしょう。人権があるのは「社会的」な人間に対してであって、「生物学的」なヒトに対してではない。それで、霊長類ヒト科っていう生物の一部分に「社会性」ってのがあって、その部分に対しては人権が適用されるんだと思う。

作品だって同じで、作品の存在そのものや作品の魂に著作権なんてない。人権と同じように、作品の「社会性」、つまり市場に流通しているかって部分に対しては著作権が発生するんじゃないかと思う。
作品の魂や精神性に、法体系が適用されるなんて、むしろ作品を貶めているのといっしょじゃないのかと。

作るより、作ったものを守るのに熱心な人たち
 これに関しては、私個人は強烈な違和感がある。

 人を殺してはいけない。
 殺人罪があるから、人を殺してはいけないのではない。人を殺してはいけないという社会のコンセンサスがあり、それを社会の仕組みとして支えるために殺人罪がある。
 他人の作品を盗んではならない。
 著作権法があるから、盗作してはいけないのではない。盗作してはいけないという社会のコンセンサスがあり、それを支えるために著作権法がある。
 小説家も画家も、先人の作品を学び、自らの作品の礎とする。だからといって著作権法の庇護をはずれることはない。

ヒトゴロシ 私らは、いまとりあえず、民主主義の社会に生活している。法律は、多様な価値観をもつ私たちのコンセンサスに一番近いものだ。すくなくともそのはずだ。
 どんなシステムを作っても、悪用する奴は悪用する。法律が意味をなさないなら、代わりに私たちの個の欲望を調整するための何かを提案すべきではないか?(地獄少女はなしでおながいしますw)

そもそも著作権法なんてのは、著作物で商売する人々の利益を守るための法律だから(暴論)、お金にならない私信やコメントを著作権法が保護してくれると考えるだけ無駄だと思う。

Adankadan Blogにてというコメントもいただいたことがあるが。1円訴訟という言葉もある。人はときに、名誉のためだけに戦うこともあるのだ。

 いかん。横道にそれてしまった。今稿は著作権法の話じゃないんである。
 
 かつては。

強姦の罪とは女性の心身に損害を与えたことに対する罪なのではなく、その女性を所有している男性の、あるいはその女性をやがて所有するであろう男性の所有権を侵害したことに対する罪という発祥の起源があります。

Yahoo知恵袋hcmxm954氏 だったのだそうだ。

 ネットを漁っていて、見つけたのが、「強姦罪について」。筆者・森川恭剛氏は、強姦をめぐる理論を3つに大別している。
1.保守主義:

強姦の本質を、男性の所有権の侵害であると捉える。

2.リベラリズム:

強姦とは、拳骨やスティックではなく性器によって問意なく不法に接触すること。

3.ラディカリズム:

強姦を一種の貶め(中略)征服感の誇示としての侮辱であると捉える。


「強姦の本質は、妻に対する夫、娘に対する父親の所有権の侵害」。この概念については、最後の稿でも再度、触れたい。
 胸に手をあてて考えるに、自分の感覚は、ラディカリズムに近いと思う。人身売買がいけないの同じ理由。レイプは、レイプされた者の、人としての尊厳を傷つけるから、いけない。レイプだけではなく、強制猥褻も同様だと思う。

 ヒトの群れのなかで、食べ物を持っている個体と、飢えている個体がいるとしよう。飢えたら食いたいのは本能だが、盗んで食えば犯罪である。これが法であり、群れの掟なわけだ。
 セックスをしたい個体と、相手になりたくない個体がいる。そこで、レイプしてはいけない、というのは、同様に法であり、群れの掟なわけで。
 本能なのだからやっていい、というヒトは、法という調整機構を否定していることになるんじゃなかろうか。

次稿でメインは終わる予定
・私たちは本能が知らない時代を生きている。

*ボノボ=昔はピグミーチンパンジーといった。
和光大学『愛と平和のボノボ』

2008年03月

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